「東南アジアの社会と文化研究会」のお知らせ

第9回ゾミア研究会・第71回研究会<2015/11/27>
加藤久美子氏
シプソンパンナーとその近隣地域に対する中国およびビルマの関与:1830年代


第71回「東南アジアの社会と文化研究会」を下記の通り開催します。
今回は第9回ゾミア研究会と共催でおこないます。

名古屋大学文学研究科の加藤久美子教授をお招きし、シプソンパンナーとその近隣地域についてお話しいただきます。
オープンな研究会ですので、ぜひお気軽にご参集ください。
事前登録等の手続きは必要ありません。
また、研究会後には懇親会を予定しております。

●日時

2015年11月27日(金)16:00~18:00(15:30開場)

●場所

京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
総合研究2号館4階大会議室(AA447)
(京都市左京区吉田本町京都大学本部構内 百万遍のすぐ近くです。)

会場についてはこちらもご参照ください。
http://www.asafas.kyoto-u.ac.jp/about/access
地図が二枚ありますが、下の方の地図(「本部構内」)です。

●話題提供者

加藤久美子 氏(名古屋大学文学研究科教授)

●発表題目

「シプソンパンナーとその近隣地域に対する中国およびビルマの関与:1830年代」

●発表要旨

 現在の中国雲南省南部からミャンマーのシャン州東部にかけての地域は、中国王朝・ビルマ王朝双方にとっての「辺境」であり、中国は13世紀末から、ビルマは16世紀後半から、この地域に政治的影響力を及ぼしていた。そこにはタイTai族によってつくられた政権が複数成立し、形式的にせよ実質を伴うものであったにせよ、中国・ビルマ双方に従属しながら存在してきた。本発表は、1830年代において、中国清朝とビルマのコンバウン朝それぞれが、それらタイ族政権に対してどのようにどの程度影響力を及ぼしていたのかを、主にCaptain McLeod’s 1837 Journalと道光『普洱府志』という二つの史料から、議論しようとするものである。
 1830年代の当該地域には、30ほどのタイ族諸国の連合体であったシプソンパンナーの他に、それより南に位置するチェントゥン、チェンケンなどのタイ族政権が存在していた。中国清朝の公的認識を表すと考えられる道光『普洱府志』には、チェントゥンやチェンケンは土司、すなわち中国の官職を与えられた土着支配者が治める地と書かれているが、実際はビルマの影響下にあった。そして中国はそれを認め、むしろそれらの地に関わるのを避けていた。中でもチェントゥンは、モンナイ(ムアンナイ)を介してビルマからの命令を受けていたことが史料から読み取れる。
 一方、シプソンパンナー内のタイ族諸国の支配者たちも清から土司に任命されていた。中でも、シプソンパンナー全体を支配する立場にあったムン・ツェンフンの支配者は、最高位の宣慰使の職を与えられ、実際に思茅、普洱、さらには雲南(昆明)からの命令を受けていた。シプソンパンナーの中心にはメコン河が北から南へと流れていたが、メコン東岸地域は北部に思茅、普洱といった中国人官僚が治める町が作られており、メコン西岸に接していたムン・ツェンフンは「外国」から来た者がメコン河を東側へ渡ろうとする場合の関所の役割を果たしていた。
 シプソンパンナーの宮廷における中国およびビルマの影響・関与については、史料から以下のことがわかる。宮廷には中国人の書記がいて、会議の記録を取ったり中国宛ての文書を作成したりしていた。タイ族の支配者たちは中国語を話すことができ、中国服を正装としていた。一方、ビルマはシットケ(チーカイ)と呼ばれる軍官をシプソンパンナーに派遣していた。シットケは5000人の軍隊とともにムン・ツェンフンに常駐し、シプソンパンナーの支配者たちの会議に出席する権利を有し、宮廷ではシプソンパンナーの首相よりも高位であるとされた。当時のシットケはシプソンパンナーの王族と姻戚関係を結び、1837年に起きたクーデターにも関与していた。
 以上から、1830年代のこの地域では、シプソンパンナーが中国の影響力とビルマの影響力を同時に受ける地として存在していたことがわかる。しかし、シプソンパンナーに対する中国からの関与とビルマからの関与は、上述のようにかなり異なった形を取っていたのである。

●2015年度世話人代表・研究会事務局

今村真央 (京都大学東南アジア研究所)
imamura(at)cseas.kyoto-u.ac.jp
加藤裕美 (京都大学白眉センター)
kato(at)cseas.kyoto-u.ac.jp